二十八鎖目
今年度の同明会の学校公演が始まった。
今年は金剛流の「絵馬」をする。
能舞台を体育館に設置しての上演だ。
子供たちは体育館に能舞台が出現して大興奮である。
二十六鎖目
「手」について書こう。
手と言ってもhandではなく、囃子の「手」のことだ。
能楽囃子の打楽器はそれぞれのリズムパターンに名前を付けている。
これを「手」と言う。
石井流では300種類以上の手があり、これを様々な組み合わせで並べることによって一曲を構成する。(手組)
手組を謡本に書きつけたものを手附という。つまり楽譜である。
この手を覚えるのは、なかなか骨が折れる。
ただ手の順番を覚えるだけでは無く、謡の詞や節、他のパートの手などを同時に覚える必要がある。
そして、本番で手組を間違えないように演奏するのは大変難しいことである。
大鼓を演奏する上で、手組を間違えないようにするのは当然だが、
一方で手組にとらわれすぎて、曲調を見失ったり、間の整合性を欠かしてしまっては何にもならない。
何も考えなくても打てるくらいに稽古するのみだ。
二十五鎖目
能舞台と言うものは、実に厳しい場所だ。
家で稽古して出来ていたことの30%もできれば良い方だろう。
というのも、能舞台という結界の力や、他の演者が放つエネルギーと大音量に圧倒されて、
なかなか思い通りに打つことができないものだからだ。
これを克服するには、自らを信じて思い切って打つしかない。
前回の投稿で紹介した、三寿会が近づいてきた。
出演の会員には、自信を持って舞台に出てほしい。
やってきた稽古を。自らの感性を。そして自分自身を信じてほしい。
そうすれば、良い舞台となるに違いない。
二十三鎖目
2ヵ月もの休稿となってしまった。
ずっと、このままではブログが消えてしまうとの危機感はあったのだが、
この2か月の間、能楽師なのか団体職員なのかわからないほどの、
事務の仕事に忙殺されていた。
年度末に向け、所属団体の各助成金や公共機関からの請負事業の決算報告が重なったのだ。
おまけに自分の確定申告もあった。
(おかげで、ExcelとWordが普通に使えるようにはなった。)
なんとか、26年度分の仕事はできたので、言無記を再開したいと思う。
二十二鎖目
もうだいぶ日がたったのだが、1月13日、僕にとっての2つの巨星が墜ちた。
ひとつは、片山幽雪師、もう一つは叔父の好文氏である。
二人ともまだまだ元気にまた会えると思っていたので、突然の訃報に未だ心の整理がつかない。
ともに、昭和5年生まれで、同じ日に亡くなり、僕がとても世話になった人だ。
この2つの巨星に特に接点はなかったのだが、なにか縁を感じる。
僕に生まれて初めてワインを飲ませたのが叔父の好文だ。
一緒に山登りに行ったとき、水筒をだし「おちゃ(け)飲む?」と聞いてきたので、「はい飲みます」と言って、飲んだらワイン。
当時高校生であった僕がびっくりするのを、楽しそうに見ていた叔父のしてやったりの顔が忘れられない。
しっかり者であり、いたずら者、そして、おちゃめな好文は、塾の経営で成功し、僕の実家「成田」の大黒柱であった。
それとは対照的だったのが、幽雪師だ。
大変厳しく、よく叱られたが、いつも的確な意見を仰られ、常に真摯に能に向き合う姿勢に、ただただ感服していた。
京都能楽界全体の父親的な存在であった。
特に僕の師匠が亡くなってからは、そのご意見を頼りにしていた。
京都観世会館での稽古能や申し合わせ(リハーサル)の時は決まって大鼓の真正面にお座りになり、厳しい目を向けられた。
若い頃は、どうして大鼓の正面に座るのだと、その視線に恐れおののいたものだ。
今も、京都観世会館で打っているとその席から見られているような気がしてならない。
大きな存在を失った。
二人の冥福を祈りつつ、ワインを傾ける。
以前は能楽師が他のジャンルと共演することは、タブーとされていたが、
最近は規制緩和と言うか、自由化と言うか、他ジャンルの芸術との共演が許される時代になった。
僕は、縁あって、このいわゆるコラボレーションを行う団体の京都創生座に参加している。
創生座は、能、狂言、長唄、地唄をごちゃまぜにして、新しい古典を生み出そうという試みている。
先日、公演があり「まるで昔からある曲を演奏しているみたいなので、どこが新しいのかわからない。」との評価をいただいた。
いいのか悪いのか…
まあ良いことにしよう。
創生座の活動も10年近くなりお互いに違いや共通点などがわかってきたので、今では問題なく演奏できるのだが、当初は全く合わず大変苦労した。
驚いたのは、長唄の囃子である。
長唄囃子は能楽囃子をベースに作られているので、手付(楽譜)はほぼ同じだ。
だが、ディスカッションをしていると、お互い話が合わず、どうもおかしいと思っていたら、
なんと、基本となる拍の始まりが違うのだ。
長唄の1拍目は能楽の2拍目になる。
このことに気付くのにかなりの時間を要した。
大鼓主体なのか、小鼓主体なのかで、基準となる拍が違うようだ。
他にも、作法、音楽的価値観の違いなどを、どう折り合わせるかに苦心している。
ただ、コラボをすると必ず感じることは、理論、価値観、表現法など決定的に違うところがあっても、音楽であるということは共通しており、
感性さえ共有すれば、どんなジャンルとでも芸ができるということだ。
これからも能楽で培った感性、技術で新たな挑戦に取り組みたいと思う。
あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
毎年、元日は朝10時半より京都観世会の謡初式と12時半から平安神宮で京都能楽会の奉納がある。
全員、紋付羽織袴の出で立ちで出勤する習わしだ。
謡初式は特に役付と言うものをせず、だれが何を打つか、適当に決まっていく。
時には、当日に決まることも。
謡初式終了後は速やかに平安神宮に移動し、初番以外の役のものは、本殿にて正式参拝をする。
(紋付羽織袴姿の人間がぞろぞろと列をなして歩くので、一般の初詣客にヤクザと勘違いされたりする。)
そして、神楽殿で奉納だ。
屋内だが吹きさらしなので寒いが、気が引き締まって良い。
奉納終了後、お神酒をいただき、全員で四海波を斉唱して解散する。
1年のルーティンである。