三八鎖目
大鼓の皮は消耗品であると以前に書いた。
僕は毎年15組枚を購入している。
つまり毎年30枚の大鼓の皮が消耗されていくのだ。
これがどんどん部屋にたまっていく。
今年のお盆は、どこにも行かず家でゆっくりと時間が取れたので整理したら、
糸切れ、破れ、へたりなど、出てくる出てくる使えなくなった皮。
あまりにたくさんあったので少し途方に暮れた。
道具を廃棄物として扱うのは忍びないので、皆さんにプレゼントしたいと思う。
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三七鎖目
打音シリーズ第2弾である。
石井流の打ち方の一つに「ツ」という音がある。
当家につたわる手附には、
「鼓の皮より約五寸位の距離を取りて薬指(又は中指及薬指の二本にて)
十六輪の内側を単に皮に触るる程度にて響かぬ様軽く押さへる如くに打つなり
要するに間を取る事の一手段に過ぎざるなり」
とある。
聞かせる音ではないので、打つ動作が見えても見所には聞こえない。
打ちそこないに見えるかもしれないが、敢えてそういう打ち方をしているのだ。
ツの打ち方により次の間が大きく変わる。聞こえないが重要な音である。
三六鎖目
皮の修理作業を紹介しよう。
大鼓の皮はしばしば締めている最中や、演奏中に千綴、十六綴の糸が切れることがある。
皆様も舞台からパシっとかピキっと言う音を聴いたことがないだろうか。
あの音は大鼓の皮の縫い目が切れる音なのだ。
縫い目が切れると、皮が緩んでしまい良い音が出なくなるので、修理をしなければならない。
まず切れた糸を皮から取り除き、また新たな糸で縫い直す。
僕は、ロウ引きしたナイロン製の糸を4本束ねてヨリをかけたものを使っている。
糸が切れる原因は、皮の表面の穴と裏側の穴の位置が収縮を繰り返すことで段々ずれるためだ。
穴の位置がずれているので、糸を抜くのも、縫い直すのも骨が折れる。
寸暇を見つけては、内職をする。
大鼓方の仕事は多岐にわたる。
三五鎖目
かなり専門的になるが、大鼓の打ち方について書こう。
大鼓は小鼓と違い、調べ緒の握り方によって音を変えることはできない。
そこで打ち方の強弱や皮の打つ場所、手の当て方などをいくつかの音を打ち分けている。
石井流では「チョン・チン・ドン・ツ」の4つの音を打ち分ける。
まず、大鼓と言えばこの音である。
「チョン」
当家に伝わる手附には、「鼓ノ皮ノ中央ヨリ少シ外面ニ依リタル所ヲ右ノ手ヲ充分斜メニ延シテ親指ヲ省ク他ノ四本ノ指ニテ強ク打ツ主タル音ナリ」とある。
この「チョン」は、大鼓の演奏で主たる(最も多く出てくる)音で、最も強い音だ。
主たる音なので、良い音を出すことがとても重要だ。
良い「チョン」を出すためには、靡きが大事だと思う。
そのためには、力を抜いて打ち、まず先に掌が皮の縁の部分に当たり、手のひらは皮の縁に当たったままその後から指先が皮の中央よりやや外側(胴が皮に当たっている部分に第1関節があたる位置)を打つ必要があり、手の痛みに対する恐怖に打ち勝ち、良い音を出したいと思う欲を捨て、体幹は動じず、うまく腕全体の力を抜いて打たなければならない。
これはなかなか難しい。
だが、これがうまく決まった時は実に爽快である。
機会があれば是非体験してみてはいかが。
三三鎖目
久しぶりの投稿である。
今週、以前にも書いた学校公演に行ってきた。
今回は宮城県各地の4校を廻った。
今年度はいつでもそうなのだが、学校公演では大鼓は打たず、司会解説役での出演だ。
打たずにしゃべってばっかりの毎日だと無性に大鼓を打ちたくなる。
今日は久しぶりに大鼓方として出演したので、楽しかった。
自分のことながら、自分は大鼓が好きなのだと実感した。
三二鎖目
近頃、徒然なるままに思いを巡らし、結論に至ったことを語ろうと思う。
僕は、常々西洋音楽と能楽は音楽理論が全く異なっており、その原因はどこにあるのだろうと思っていた。
ある時、さる病室に見舞いに行き、バイタルサインのモニターを見ていて、ふと気がついた。
鼓動はリズムが常に規則的であり、呼吸は常に不規則なリズムを刻む。
このことから、以下のような事を考えた。
世界中にあふれる音楽のほとんどが、リズムから始まり、それが発展して旋律を作るようになった。
そして、そのリズムは身体的活動から生まれてきており、それぞれの音楽の特性は、身体のどの部分からでてきたリズムなのかによって違いが出てくる。
思えば、身体が静穏(安静)な状態のとき、鼓動はリズムが規則的であり、呼吸は不規則なリズムを刻む。
そして、激しい運動などをすると、鼓動は規則的に早くなる。この時、呼吸も早くなり規則的なリズムに近づく。
つまり、鼓動は西洋音楽であり、呼吸は能楽囃子そのものだ。
西洋音楽は鼓動、能楽は呼吸をもとにできている。
だから、それぞれの理論は相容れない。これが、西洋音楽と能楽の違いなのだと。
しかし、僕はこうも思う。
理論は相容れなくても、感性は共有できる。
音楽(芸術)であることは同じなのだ。
三一鎖目
同会若手五人による自主企画公演「第1回囃子Labo」が開催され、満席の盛会となった。
(僕は、押しかけスタッフとして場内整理に当たった。)
この催しは、読んで字の如く、能楽囃子の可能性を探る実験的催しである。
様々な一声(出囃子の一種)の聞き比べや、船弁慶を囃子のみで演ずる言わば「囃子語り」的な船弁慶組曲など、盛りだくさんの内容であった。
若手達は催しをすることの大変さと同時に喜びを感じたのではないだろうか。
いつもはおとなしくどこか物足りない印象の若手だが、意欲的に様々な試みにチャレンジする姿をみて嬉しく思った。
これからどのような活動を展開していくのだろう。
「囃子Labo」の今後が楽しみである。
三〇鎖目
遅々として進まない当ブログであるが、なんとか30回目まできた。
だんだんネタがなくなってきたので、少々マニアックなことを書こうと思う。
タイトルの「合、不合」はアウアワズと読む。
どういう意味かと言うと拍子(リズム)が旋律に合うか合わないかということである。
能の音楽は、謡もしくは笛の旋律が明確に拍に合う箇所を拍子合(ヒョウシアイ)、全く合わない個所を拍子不合(ヒョウシアワズ)という。
また、拍子にあっているけれど合っていないような、合っていないけど合っているような状態を合、不合と言う。
この拍子不合の箇所に演奏することをアシライと言う。
アシライは、旋律上の拍はないのだが、なんとなくノリがあっている。
旋律上の拍がないので、何鎖(何小節)打つかは気分次第でかまわないが、始まりと終わりだけはきっちりと合うように演奏しなければいけないので、とても難しい。
こういう概念は、西洋音楽にはないらしいが、シテなど立ち方の動きに制約が出ず、囃子(打楽器)も謡や笛の旋律にとらわれず、情景描写や立ち方の心理描写に重きを置いて、のびのびと演奏できる、とても便利な奏法である。
捉えどころがない曖昧なリズムなのだが、この合っているような合っていないような「合、不合」の拍子こそが能楽囃子の極意と言える。
二十九鎖目
もちろん公演のためである。
二日間の公演は満員のお客様でご好評を頂戴した。
海外公演での課題の一つに舞台設営があるが、今回はこの点において全く問題がなかった。
と言うのも、ブラジル能楽連盟の方が、あらかじめ舞台を設営していただいていたのだ。
舞台はの寸法、しつらえ、すべて問題なくとても助かった。
ブラジル能楽連盟は、日本からの移民たちが現地で能楽文化を伝え、いまも活動を続けている。
どれだけのご苦労があったのだろう。
小鼓は皮が破れたら自分たちで作り(犬の皮で代用)、大鼓も大切に大切に使い、
衣装も自分たちで作っているとおっしゃっていた。
今年は公演で高砂を上演されたとのこと。
メンバーの方に流儀はなんですかとお尋ねしたら、現地の先生に習っているから、わからないと。
流儀の枠組みなど関係なく、とにかく能楽を愛する。
素晴らしいことである。
能楽の芸事が日本のみならず、地球の裏側でも脈々と受け継がれている。
僕は感動を覚えた。