post

「チョン」

三五鎖目

かなり専門的になるが、大鼓の打ち方について書こう。

大鼓は小鼓と違い、調べ緒の握り方によって音を変えることはできない。

そこで打ち方の強弱や皮の打つ場所、手の当て方などをいくつかの音を打ち分けている。

石井流では「チョン・チン・ドン・ツ」の4つの音を打ち分ける。

まず、大鼓と言えばこの音である。

「チョン」

当家に伝わる手附には、「鼓ノ皮ノ中央ヨリ少シ外面ニ依リタル所ヲ右ノ手ヲ充分斜メニ延シテ親指ヲ省ク他ノ四本ノ指ニテ強ク打ツ主タル音ナリ」とある。

この「チョン」は、大鼓の演奏で主たる(最も多く出てくる)音で、最も強い音だ。

主たる音なので、良い音を出すことがとても重要だ。

良い「チョン」を出すためには、靡きが大事だと思う。

そのためには、力を抜いて打ち、まず先に掌が皮の縁の部分に当たり、手のひらは皮の縁に当たったままその後から指先が皮の中央よりやや外側(胴が皮に当たっている部分に第1関節があたる位置)を打つ必要があり、手の痛みに対する恐怖に打ち勝ち、良い音を出したいと思う欲を捨て、体幹は動じず、うまく腕全体の力を抜いて打たなければならない。

これはなかなか難しい。

だが、これがうまく決まった時は実に爽快である。

機会があれば是非体験してみてはいかが。

post

明けましておめでとうございます

三四鎖目_MG_0208

あけましておめでとうございます。

暖冬であたたかい毎日だったが、元日はこの時期らしい寒さとなった。

今年も吉例の平安神宮での奉納をした。

この寒さが気を引き締める。

良い正月となった。

今年もよろしく願うと祈る。

post

久しぶりに

三三鎖目

久しぶりの投稿である。

今週、以前にも書いた学校公演に行ってきた。

今回は宮城県各地の4校を廻った。

今年度はいつでもそうなのだが、学校公演では大鼓は打たず、司会解説役での出演だ。

打たずにしゃべってばっかりの毎日だと無性に大鼓を打ちたくなる。

今日は久しぶりに大鼓方として出演したので、楽しかった。

自分のことながら、自分は大鼓が好きなのだと実感した。

 

post

違うが同じ

三二鎖目

近頃、徒然なるままに思いを巡らし、結論に至ったことを語ろうと思う。

僕は、常々西洋音楽と能楽は音楽理論が全く異なっており、その原因はどこにあるのだろうと思っていた。

ある時、さる病室に見舞いに行き、バイタルサインのモニターを見ていて、ふと気がついた。

鼓動はリズムが常に規則的であり、呼吸は常に不規則なリズムを刻む。

このことから、以下のような事を考えた。

世界中にあふれる音楽のほとんどが、リズムから始まり、それが発展して旋律を作るようになった。

そして、そのリズムは身体的活動から生まれてきており、それぞれの音楽の特性は、身体のどの部分からでてきたリズムなのかによって違いが出てくる。

思えば、身体が静穏(安静)な状態のとき、鼓動はリズムが規則的であり、呼吸は不規則なリズムを刻む。

そして、激しい運動などをすると、鼓動は規則的に早くなる。この時、呼吸も早くなり規則的なリズムに近づく。

つまり、鼓動は西洋音楽であり、呼吸は能楽囃子そのものだ。

西洋音楽は鼓動、能楽は呼吸をもとにできている。

だから、それぞれの理論は相容れない。これが、西洋音楽と能楽の違いなのだと。

しかし、僕はこうも思う。

理論は相容れなくても、感性は共有できる。

音楽(芸術)であることは同じなのだ。

post

囃子Labo

三一鎖目

先日、僕が所属する団体である京都能楽囃子方同明会の主催で、hayassilabo1

同会若手五人による自主企画公演「第1回囃子Labo」が開催され、満席の盛会となった。

(僕は、押しかけスタッフとして場内整理に当たった。)

この催しは、読んで字の如く、能楽囃子の可能性を探る実験的催しである。

様々な一声(出囃子の一種)の聞き比べや、船弁慶を囃子のみで演ずる言わば「囃子語り」的な船弁慶組曲など、盛りだくさんの内容であった。

若手達は催しをすることの大変さと同時に喜びを感じたのではないだろうか。

いつもはおとなしくどこか物足りない印象の若手だが、意欲的に様々な試みにチャレンジする姿をみて嬉しく思った。

これからどのような活動を展開していくのだろう。

「囃子Labo」の今後が楽しみである。

post

合、不合

三〇鎖目

遅々として進まない当ブログであるが、なんとか30回目まできた。

だんだんネタがなくなってきたので、少々マニアックなことを書こうと思う。

タイトルの「合、不合」はアウアワズと読む。

どういう意味かと言うと拍子(リズム)が旋律に合うか合わないかということである。

能の音楽は、謡もしくは笛の旋律が明確に拍に合う箇所を拍子合(ヒョウシアイ)、全く合わない個所を拍子不合(ヒョウシアワズ)という。

また、拍子にあっているけれど合っていないような、合っていないけど合っているような状態を合、不合と言う。

この拍子不合の箇所に演奏することをアシライと言う。

アシライは、旋律上の拍はないのだが、なんとなくノリがあっている。

旋律上の拍がないので、何鎖(何小節)打つかは気分次第でかまわないが、始まりと終わりだけはきっちりと合うように演奏しなければいけないので、とても難しい。

こういう概念は、西洋音楽にはないらしいが、シテなど立ち方の動きに制約が出ず、囃子(打楽器)も謡や笛の旋律にとらわれず、情景描写や立ち方の心理描写に重きを置いて、のびのびと演奏できる、とても便利な奏法である。

捉えどころがない曖昧なリズムなのだが、この合っているような合っていないような「合、不合」の拍子こそが能楽囃子の極意と言える。

post

地球の裏側で

二十九鎖目

先日、ブラジル サンパウロに行った。DCIM0969

もちろん公演のためである。

二日間の公演は満員のお客様でご好評を頂戴した。

海外公演での課題の一つに舞台設営があるが、今回はこの点において全く問題がなかった。

と言うのも、ブラジル能楽連盟の方が、あらかじめ舞台を設営していただいていたのだ。

舞台はの寸法、しつらえ、すべて問題なくとても助かった。

ブラジル能楽連盟は、日本からの移民たちが現地で能楽文化を伝え、いまも活動を続けている。

どれだけのご苦労があったのだろう。

小鼓は皮が破れたら自分たちで作り(犬の皮で代用)、大鼓も大切に大切に使い、

衣装も自分たちで作っているとおっしゃっていた。

今年は公演で高砂を上演されたとのこと。

メンバーの方に流儀はなんですかとお尋ねしたら、現地の先生に習っているから、わからないと。

流儀の枠組みなど関係なく、とにかく能楽を愛する。

素晴らしいことである。

能楽の芸事が日本のみならず、地球の裏側でも脈々と受け継がれている。

僕は感動を覚えた。

 

 

post

27年度学校公演

二十八鎖目

今年度の同明会の学校公演が始まった。

今年は金剛流の「絵馬」をする。

能舞台を体育館に設置しての上演だ。

子供たちは体育館に能舞台が出現して大興奮である。

junkaibutai

post

小締

二十七鎖目DCIM0837

小締のことを紹介しよう。

大鼓と言う楽器のパーツの中で最も小さいのが「小締」(こじめ)である。

小締とは、大鼓を締める(組み立てる)際、最後に持ち手部分にかける正絹製の組紐だ。

流儀により使用する組紐の組み方や形状、長さが違う。

石井流では三尺八寸、丸打ち四本組を使用する。

この小締の微妙な締め具合が調子を大きく左右する。

重要なパーツである。

DCIM0836

 

 

post

二十六鎖目

「手」について書こう。

手と言ってもhandではなく、囃子の「手」のことだ。

能楽囃子の打楽器はそれぞれのリズムパターンに名前を付けている。

これを「手」と言う。

石井流では300種類以上の手があり、これを様々な組み合わせで並べることによって一曲を構成する。(手組)

手組を謡本に書きつけたものを手附という。つまり楽譜である。

この手を覚えるのは、なかなか骨が折れる。

ただ手の順番を覚えるだけでは無く、謡の詞や節、他のパートの手などを同時に覚える必要がある。

そして、本番で手組を間違えないように演奏するのは大変難しいことである。

大鼓を演奏する上で、手組を間違えないようにするのは当然だが、

一方で手組にとらわれすぎて、曲調を見失ったり、間の整合性を欠かしてしまっては何にもならない。

何も考えなくても打てるくらいに稽古するのみだ。